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0473 第473話 酒蔵の町・新川ものがたり 「次男・雄次郎」
次男・雄次郎、長部家へ
高木家と長部家は、商売上の取引きの関係で古くから交渉があった。
とりわけ、長部家の代表銘柄「大関」の名は藤七が名づけ親であり、大関
に改名前の「万両」は、寛政年間(1789〜1801)から中井酒店と一手販売
の契約を結んだ間柄にあった。また9代文治郎は、恒三郎といった襲名前の
明治30年、23歳のころ、藤七が出店主だった当時の中井酒店に宿泊。
同38年には8代文治郎と、その姻戚関係にあった鷲尾家の人びとなど総
勢7人が関東、東北地方の遊覧旅行に上京され、その案内役には藤七ととも
に、当時開成中学校生徒だった次男・雄次郎があたったのである。
明治41年3月29日、その雄次郎が開成中学校を卒業した。
この卒業式には父・藤七も出席。 同日付「忠吉日記」には「雄次郎氏、
本日開成中学校卒業(卒業五ヶ年)、卒業証書授与式アリ、父上参列ス」と
ある。
卒業生82名の中には、のち革新官僚の一人として戦中、名を馳せた井野
碩哉(ひろや)農林大臣、すでに述べたように鉄道省で観光事業の拡大発展
に業績のあった田(でん)誠(田英夫国会議員の父)、また芸術座を経て大
正6年新国劇を創立し、大衆劇に新境地を開いた「沢正(さわしょう)」こ
と、沢田正二郎などがいた。沢田正二郎については、大正5年2月13日付
「雄次郎日記」に、「日曜、小雪降る、神戸聚楽館ニ開催の芸術座劇見物、
真人間ト仏御前てふ標題、10年前ノ友人沢田正二郎君ノ舞台振り、始めて
見る」と記している。
すでに述べたように、雄次郎の開成中学校における成績は、常に上位を占
めていた。「忠吉日記」には、4年終了時の成績は平均81点、93人中14
番、さらに5年1学期の成績は平均78点、42人中5番と記されている。
中学校卒業後の進路について本人は、渡米して新天地を見出すか、あるい
は外国貿易商社勤務を希望していたようである。これも、すでに271頁およ
び273頁に引用した「忠吉日記」に記されているように兄・忠吉が時事新報
社・大西利平にあてた書簡の中の「雄次郎渡米ニ付、前途ノ方針ヲ定メ度ニ
付」の文面や、9代文治郎が藤七にあてた書簡の中の「必ズ相当ノ外国取引
アル阪神ノ商会へ御世話可申(もうすべき)ニ付」の文面によってうかがう
ことができる。
いずれにしても、明治41年3月1日付9代文治郎から藤七あての書簡、
「永住ノ覚悟にて御遣シアレ」の勧誘によつて、雄次郎は長部家へ寄寓する
こととなった。
(酒蔵の町・新川ものがたり 大関と木藤七、木藤夫、木文雄、
沢和哉共編 清文社刊より)
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