0469  第469話  酒蔵の町・新川ものがたり 「進学」
  弟・宗次郎の進学について

 東京の下町の一劃(いっかく)、掘割り・新川をはさんだ酒蔵の町、北新川と
南新川界隈で、息子を中学校(旧制)に進学させようという風潮が現われは
じめたのは、日清戦争後の明治30年代のことである。日露戦争後の40年
代には、大学へ進学させる酒問屋の主人、番頭も徐々に現われはじめた。
 新川界隈の進学状況について、前掲書「酒蔵の町」には、

 酒蔵の町である北新川と南新川の界隈で、息子を中学校にやろうという気
 持が現われ始めたのは、日清戦争ののち明治30年代になってからのこと
 のようである。−
 明治40年代になると、北新川−川向うの南新川界隈で、息子たちを慶応
 義塾に入れる家(うち)が急に増えてきた。明治43年〜4年頃には、北
 新川と南新川とで、大学から普通部、商工学校と幼稚舎までを合わせると、
 約20人ほどの息子たちが慶応に入っていた。酒問屋のご主人の息子さん
 ばかりでなく、番頭さんの息子たちもいるのである。 福沢塾→慶応義塾
 出身の立派な実業家が多いのを知って羨ましかったのであろう(当時は財
 界人とか事業家ということばはなかったように思う)。

 もし、できることなら、息子を学校へ行かせてやりたい。そして、あのよ
 うな人になれればありがたい−あれほどまでにはなれなくても、それは本
 人次第のことで仕方がない。学校へ行って本など読んだって、商売の役に
 たつものかと口ではいってはいながら、心のなかでは行けたら行かしてや
 りたいものだと思っていたのであろう。そして、親がそのような希望をも
 つことができるような生活水準=暮しが楽になってきたからであろう。
 日露戦争後の新しい一般の風潮が、遅れがちではあるが、酒蔵の町にも浸
 み込んできたのである。しかし、息子をお役人とか政治家にしたいなどと
 は思っていない。実業家にしたいのだから、それならば慶応だということ
 になったのであろう。

と記されている。

(酒蔵の町・新川ものがたり 大関と木藤七、木藤夫、木文雄、
 沢和哉共編 清文社刊より)