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0468 第468話 酒蔵の町・新川ものがたり 「満洲旅行」
わが国最初の海外旅行
日露戦争終結後の明治39年、文部、陸軍両省協賛のもとに、わが国最初
の満洲(中国東北部)修学旅行が計画された。
この修学旅行は、全国の中学校、専門学校、大学の希望生徒を対象に、
「満洲旅行学生隊」を組織し、日露戦争の戦跡をしのび、あわせて同地の商
工業、教育、宗教、言語などの見学によって、幅広い視野を身につけること
を目的として計画されたものであった。
実施にあたっては、全国の希望学生7千人を約4千人にしぼり、一回の人
数を六百人ないし千人の五組に分割。 陸軍省では、7月15日宇品出航の
第一回琴平丸をはじめとして、7月29日出航の第五回樺太丸まで、陸軍の
御用船五隻を準備した。
開成中学校の渡満が、7月22日宇品出航の第三回に決定したことを知っ
た藤七は、同校の田辺校長を訪問し、当時開成中学校の4年生だった次男・
雄次郎に加えて、中井酒店の番頭になりかけていた長男・忠吉の参加をとく
に懇願したが、即答は得られなかった。
当時忠吉は22歳。15〜17歳の生徒の中に入れて参加させて欲しいと
いうのは、まことに非常識ともいえる申し入れであった。しかし、このこと
については、四男・寿一が、「父が田辺先生に無理なお願いをして、この満
洲旅行団に学生でもない若い番頭になりかかっている長男を参加させたのも、
中学にも行かせずに酒店に奉公させたことを、内心は気の毒にも思うように
なっていたのではないかと思う」(前掲書「酒蔵の町」)と述べているよう
に、小学校中退で酒店の奉公に出した、長男に対する罪ほろぼしにも似た親
の心情が背景にあったのである。
一方、この参加には忠吉自身も非常な乗り気で、出発が一週間後に迫った
7月13日、さらに15日と再度にわたり、第三回の監督の一人として渡満
する教頭の石田羊一郎先生を、小石川表町109番地の自邸に訪ね、懇願を
重ねた。これは、父・藤七の助言があっての行動と推測される。
しかし、すでに人数も決定したこととあって、一旦は謝絶されたのだった
が、運よく、この希望は出発前日の7月18日、不参加者が出たことによっ
て、急きょ職員の名目で許可されることとなった。 忠吉自身の記した次の
「満洲行−日記之摘要」の冒頭には、この旅行参加の経緯とともに、「巨額
ノ旅費ト月余に亘ル旅行ヲ特ニ勧メラレシ父母、其他ノ人々ノ好意ヲ受ケテ
・・・・」と、その喜びの気持ちが率直に表現されている。 (中略)
(酒蔵の町・新川ものがたり 大関と木藤七、木藤夫、木文雄、
沢和哉共編 清文社刊より)
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