0422  第422話  酒蔵の町・新川ものがたり 「江戸十組問屋」
  菱垣(ひがき)廻船と樽(たる)廻船

 一方、元禄7年(1694)には、すでに述べたように、日本橋の大坂屋
伊兵衛ら問屋商人が連合して「江戸十組問屋」が結成された。この組織は、
下積荷物の荷主が上積荷物の損失を負担する、いわば共同の損害処理機関で
あった。
 つまり、菱垣廻船では、酒と他の荷物が混載され、酒、油、砂糖、瀬戸物
鉄類などの重量物は、下積荷物としてとり扱われた。これに対して、繰綿、
昆布、染草、薬種、紙類、木綿等、「刎荷(はねに」)と呼ばれる比較的軽
量の嵩高品は、上積荷物として扱われ、海難のときには船の安定をはかるた
め海中に投棄された。
 また「汐かぶり」によって荷物の価値が低下することも多かった。そこで
海難によて発生する上積荷物と下積荷物の不平等を、各荷主が積み荷の価値
に応じて保障し合う制度の処理機関として「江戸十組問屋」は発足したもの
であった。

 しかし、この共同損害保障制度には、損害の少ない酒荷主(酒造家)の不
満があり、同時に、仕入荷物(注文荷物)は江戸十組問屋、酒荷(委託荷物)
は上方酒造家と損害負担者が異なるため、この混載には損害共同保障組織と
して成立した十組問屋にとっても不合理な面をもっていた。しかも、上方〜
江戸間の所要日数は3週間から1か月(幕末期1〜2週間)を要し、腐敗し
やすい酒の輸送にはとりわけ迅速性が要求されていた。

 ここに享保15年(1730)酒問屋は江戸十組問屋から脱退して樽廻船
への一方積を宣言、大阪の安治川、伝法および西宮の廻船問屋では、酒荷専
用の廻船、いわゆる「酒積切」の樽廻船が建造されたのだった。

(酒蔵の町・新川ものがたり 大関と木藤七、木藤夫、木文雄、
 沢和哉共編 清文社刊より)